ペンテコステの前後 -柘植不知人先生自叙伝- より


我が国の霊界において一大波動を起こした牧師 柘植不知人によって救われた者は12万人、癒された者は6万人。神様が多くの人の祈りに答えた結果なのだと以下の章を読み思う。

-柘植不知人先生自叙伝-  第十四章 台湾伝道 (二)

「主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力
をあらわされる」。歴代志下16.9


屏束(へいとう)のリバイバル
私たちは台南より高雄市に移りました。ここではすでに全市に広告を配布して、すべての準備は整っていましたので、毎晩、聴衆が天幕より溢れるほど集まり、救いを求める者も大勢出てきました。特に高雄病院では危篤の病人が癒され、神癒の栄光を拝しました。南雄の集会中に、屏東の長老教会の呉牧師が来て、「私の教会は非常に貧弱で、謝礼を差し上げることもできないようなところですが、来ていただけないでしょうか」と求められました。そのとき私は、「台湾に来た目的は、名誉や利益のためではなく、ただ貴い魂を救うためで、殉教も覚悟して来たのですから、お求めであれば喜んでまいりましょう」と答えました。すると呉牧師はたいへん喜び、すぐに帰って準備をされました。
私たちは高雄の使命が終わりましたので、約束のとおりに屏東に行きました。そこでまず呉牧師夫人に導かれて、準備祈薦のために会場となる公園へ行きました。
そこで、呉夫人は眼病のために包帯をしておられたので、まずそのために祈ろうとしましたら、彼女は声を改めて、「私の眼などは、たとえ潰れてもかまいません。また、このために先生方を迎えたのでもありません。この町の滅びる民が救われるためにお願いしたのですから、私の眼などかまわずに、市民のために少しでも多く祈ってください」と言われました。
それから夫人は、ヨハネ黙示録を開き、現代の教会の状態と主の来られる時が近いことを解き明かし、「今は教会が眠っている時ではない、眠りから醒めて伝道するべき時です」と、一時間にわたって熱心に奨励されたのです。
そもそも呉牧師は、十六年前に聖霊バプテスマを受けられ、それ以来、屏東の魂だけでなく、台湾全島のリバイバルのために日夜祈り続けてこられました。そのために身体まで痩せ衰えてしまうほど、殉教的奉仕の生涯を送られた人でした。私たちが中央公園で準備祈講会をしていた間も、すでに山に入り、断食徹夜をして、リバイバルのために祈っておられました。その留守中は、夫人がたくさんの子どもを抱えて、教会の一切をしておられました。そのために、なりふりかまわず、その時もお子さんを背中に負われたままで、自分を忘れ、ただ眼中にあるのは滅びる魂のことだけでした。
このような真剣な態度を見た私たちは、生ぬるい態度を恥じ、悔い改めて、主の前に打ち伏し、もう一度神からの霊の賜物が盛んにされるように祈り求め、格別、屏東のリバイバルのために祈って宿に帰りました。
屏東市郊外の中央の公園に天幕を張って、まず日本人のために三日間の伝道集会を開きました。昼は信者のための聖別会をしたところが、ここで主の栄光が現れ、多くの救われる者が起こりました。初めて純福昔に接した信者たちは、新しい恵みに浴し、喜びに満たされました。
そして台湾人のための集会となり、三日目の夜の伝道集会は、聴衆がすでに千余名集まっていました。その夜のメッセージは「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストにおける永遠のいのちである」(ローマ6.23)と導かれました。そこでまず罪について述べ、罪の恐ろしさを深刻に語りました。聴衆一同は息を殺して熱心に聞いていましたが、その光景はなんとも表現することのできないような厳かさがあり、聖霊は一人一人に過り、罪の呵責に苦しんでいる状態が現れてきました。
次に、「神の賜物は私たちの主イエス・キリストによって与えられる永遠のいのちである。主イエスはこの罪を贖うために、天の御座に執着せず、世界の一小国の小さな村ベツレヘムの宿屋の馬小屋にお生まれになった。つまり人類の最下級のところにお生まれになったのは、弱者の友、貧者の連れ、病人の慰めとなられるためであった」という奥義を述べました。
また、主イエスが公生涯では、あざけり、ののしりの中を歩まれ、グッセマネでは血の汗を流され、祭司の庭では衣を剥ぎ取られ、見るに忍びないような屈辱と苦しみを受けられ、ピラトの法廷では不当な死罪の宣告を受けられ、重い十字架を負って、倒れながらもカルバリー山に登られ、呪いの十字架に御体を釘づけられて、肉体の苦しみと心の痛みによって死の権威を滅ぼしたこと、魂の苦痛について、贖いの真理と父なる神および主イエスの無限の愛を説きすすめていきました。
説教もほとんど終わりに近づいたころ、この教会学校の生徒の上に、突然聖霊の火が下り、彼らは涙を流し、泣き叫び始めました。他の聴衆は厳粛に神を崇めていました。すると、呉牧師夫人は、子どもを背に負いながら、教会学校の生徒を指導して、生徒とともに、「悔い改めよ、救われよ」と、聴衆の中を縫い歩いて勧め始めました。
生徒が涙ながらに近づいて行くと、聴衆は次々と床に倒れ、泣きながら救いを叫び求めだしました。
このリバイバルのことが街中に伝わり、人々は何が起こったのかと群がってきました。集まって来た者たちは、そのすさまじい光景を見ているうちに、聖霊に感じ、罪を悔い改め、救いを叫び求めるようになりました。
私はどうすることもできなくなり、説教をやめて講壇から下りて立っていました。
すると日本語が上手に話せる一人の青年が、杖を手に持って高慢そうなそぶりで私に近づき、「これはどうしたことか」と問うてきました。そこで「これは神の御霊に感じて悔い改めているのです」と静かに答えますと、この青年もたちまち御霊の感動を受けて、悔い改めて叫び始めました。
このような光景が続き、今度は教会学校の生徒たちが五人、十人とグループをつくり、街の中へ飛び出して行き、何とも表現のできないような悲壮な声で「悔い改めよ、亡びる……亡びる」と叫び回りました。この声は深夜の全市に響きわたり、この光景を見聞きした人たちは「これはただごとではない」と、市民が続々と公園に押しかけてきました。その数は三千人とも言われています。その人たちもこの異様な光景をしばらく眺めているうちに、御霊の感動を受けて、悔い改めました。その姿は、真のリバイバルというほかはありませんでした。
その夜はひとまず集会を閉じました。翌日の台湾人の聖別会においても、信徒のうちに再びリバイバルが起こり、集会の回を重ねるたびに、ますます神の栄光が現れ、とても集会を閉じることができないような状態となりました。
次の働きの予定もありましたので、ここを呉牧師に委ねることにして、私たちはひとまず集会を閉じることにしました。呉牧師は集会の初めから山に人って帰らず、そのリバイバルの夜も、山で祈っておられたということでした。
つまり、屏東の地にリバイバルが起こったのは、この熱心な聖徒の呉牧師が十六年もの長い間この町のために真剣な祈りの手を挙げ続けてきた結果であったことは明らかであります。

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今週のお題「空の写真」