一冊の聖書から


日本同盟基督教団 湖西キリス ト教会 牧師 山本博愛 の 証


愛知県生まれの私は、両親と弟の4人家族で育ちました。中学に入るころ景気の後退で父の仕事は激減し、病弱な母を抱え家計は困窮していました。そのため中学卒業後、お寺の跡取り息子たちが学ぶ、地元の曹洞宗妙厳寺に預けられました。それは母の願いでもあり、長男として拒否できませんでした。

寺院での日課は、早朝からタ方まで修行僧として、夜は寺院が運営する高校の夜間部で学びました。授業は数名の僧侶を含め一般の教員が担当しました。そのような環境(こ置かれた私は、普通の家庭生活でほあまり考えないであろう、信仰心とは何か、真理とは何かという疑問に悩み求めるようになりました。別の見方をすれば、仏教には本物の真理がないための恐れから、そのような思いになったとも言えます。その時の私は、まさに神に背を向けていた罪と死の状態にありました。

授業では時々、本堂で他の宗教の方々の講話もあり、カトリツク神父の話を聞いた時、信仰を守るために殉教までするキリスト教徒の姿勢に心を打たれ、聖書をぜひ一度読んでみたい思いに強く駆られました。そんな時、用事で職員室に行き担任の先生の机の本棚を見ると、1冊の聖書が置いてありました。聞くと先生は神道の家系ということで、"聖書は必要ないので欲しければ待って行っていいよ"と言うので喜んでもらって帰りました。それほ日本国際ギヂ才ン協会の日英対照の新約聖書でした。

さっそく読みたいと思いましたが、寺院では公然と聖書を読めないため、私は倉庫や屋根の上でこっそり読んでいました。読み出すと、まさに渇いた荒れ地が水を吸い込むような心境で、10代後半の感受性が強い時期に、何度も何度も繰り返し読みました。特に、「山上の説教」で語られるイエス。キリストのみ言葉は、真実そのものであるという気持ちにさせられました。

その聖書の裏表紙にほ、真実のみ言葉の意味について「私は神の御前に罪人であり、主イエス・キリストは私の罪のために十字架にかかっで死んで下さった事。及び私を義とせんがために復活して下さった事を信じ、キリストを私の個人的な救い主として受け入れることを、いまここに告白いたします」という内容が記されていました。私ほこの聖書に記されているみ言葉は真実であり、私が神の御前に罪人あると示され、イエス。キリストを救い主として信じ受け入れることを告白いたしました。まさしく私が神に立ち返ること
ができたのほ、神のこのような導き(こよるものでした。

その後、旧約聖書も購入し、天地創造が記された創世記から読み進め、イザや書44章のみ言葉により、私の心に偶像礼拝の罪が明確にされていきました。そればかりか、自分が偶像礼拝で人々を惑わす仕事に就いていることを悔い改めさせられました。すぐ寺院をやめ教会にこ行こうと思いましたが、許されず悩みました。やがて夜間高校を卒業し、東京赤坂の別院に行きました。それからしばらくして教会の扉を叩き、許可を得てお世話になった寺院を去ることができました。

最初に近くにあった日本基督教団富士見町教会に導かれ、1年間程求道者会で聖書を学び、イースタ一礼拝で信仰告白をもって洗礼の恵みfこあずかりました。主の十字架と復活により私の罪は赦され、救いへと導かれて教会へ連なるものとされたことを確信するものとなりました。

それからの私は、偶像礼拝の罪から離れることができ、本当の平安を得ました。それ以来、主日の礼拝を守り、聖書を読み、祈りの生活へと聖霊によって導かれ生かされるようになりました。これはまさに1冊のギヂオンからの聖書が私を変えてくれたのです。このことを心から喜び、主に感謝しつつ、これからも主とともに歩んで行きたいと思います。


あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは。自分自身から出たことなではなく、神からの賜物です。(エペソ2:8)

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