柘植不知人先生説教集『火の流れ』から


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我が国の霊界において一大波動を起こした牧師 柘植不知人によって救われた者は12万人、癒された者は6万人。
こんなすごい方がいたんですね。

柘植不知人先生説教集『火の流れ』から抜粋

「あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」
これは私が「福音とはこれである」と示され、全世界を回って福音を宣べ伝えるきっかけとなったみ言葉です。
皆さんの中には、罪の重荷のために疲れ果てたり、咎のために、これまで苦しんできた方がおられても、皆さんの罪は、もはや処分されているのです。
二千年前に解映されているのです。
それだのに、それを信じないために苦しんできたのです。
福音とは、罪が赦されたことを伝えていくことです。主は、悲しみ悩んで行き詰まっている人のために、罪のために苦しんでくださったのです。
そのために、私たちは購われ、罪赦されたのです。主に目を付けなさい。
主イエスは十字架であなたがたのために苦しみを受けてくださったのですから、罪は購われ、赦されているのです。
ですから、安心しなさい。
信じなさい。
病める人たちが苦しんでいますが、
「まことに彼は われわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(イザヤ53.4)とあるように、
私たちの病を十字架の上で贖ってくださっているのです。
ですから、信じなさい。
また、貧しい人たちにもこの福昔を宣べ伝えなければなりません。
これは聖書研究をしたり努力をしたりして得るものとは違います。信じようではありませんか。
悪魔が信仰を妨げ、あれをせよ、これを覚えよといってだまして、この完成された福音を隠しているのです。
そのために多くの人が悩んでいるのです。
いま皆さん、どれだけの罪があってもいいのです。それはあなたがたの罪はすでに賄われているからです。
またどれだけの病も主が負ってくださったから、すでに解決しているのです。
解決していることを伝える、これが伝道です。
病気に悩み、生活難に苦しみ、心配と苦労の重荷を負って、どこかに慰めてくれる所がないかと苦しんでいます。
このようなやるせない心に、どうかしてくれる所がないかと、世界人類は叫んでいるのです。
うわべは平静な顔をしていても、みんな悩んでいるのです。
どんな王侯貴族でも、十字架がない以上、罪の赦しはありません。
罪のために悩んでいる者は信じなさい。
病人も受け入れなさい。どんな貧しい者も主を信じなさい。
すでに解決がついているのです。これが福昔です。
これまで「こんな失敗をした」といって悲しんでいる人も、罪の問題は過去のこととなりました。
すでに成就したことを伝えるのが伝道で、私たちの使命です。
このたびも汚れも罪も病も一つも残らないように「見よ、われ万物を新たにせん。……すでに成れり」とあるように、すでに成就し完成しているのです。
「こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る」一(イザヤ40.5)。
そうして世界のリバイバルが起こるのです。
私は福昔の働き人とされたことを感謝 しています。
この栄えある新約の働き人とされたことを感謝します。
この福音のためなら、生命も何もいりません。
世界人類が重荷の捨て場もなく、人間の知恵も力も尽き果てたこのときに、この福昔を委ねられたことを感謝いたします。
何千人もの前で叫ぶことができます、「罪ある者は来なさい。病人は来なさい。
罪のために死んだような状態にある人は来なさい。
神はあなたがたを赦す神です。私たちの罪や咎を、呪うような神ではありません。
「戸を開くならば」皆救われるのです。なんとありがたいことではありませんか」と。
「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(53.5)。 
これがほんとうの福音というものです。そればかりでなく過去の罪も失敗も解決してくださったのです。
その上、カと賜物を豊かに授けてくださり、目から涙を拭い、再び失敗をしないように力をもって臨んでくださるのです。
これまでは弱い者で欺かれていましたが、やはりみ言葉のように、草のような者でした。
「声が聞こえる、『呼ばわれ』。わたしは言った、『なんと呼ばわりましょうか』。一人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない』」(40.6~8)。
みな草のように、また花のように、朝に栄え、夕べには枯れるような、はかないものであります。
しかし、このたびの聖会では、御霊を与えて、再び悩んだり、罪に負けたり、悪魔の捕虜にならないように、力を与えてくださるのです。
「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(11節)。
おお弱い方よ、病める方よ、大丈夫です。
神は手荒なことはなさいません。
「乳を飲ませているものをやさしく導かれる」とあるように、弱い者に対しては弱い者のように、分からない人には分かるまで徹底的に、恵みを握るまで優しく導いてくださるのです。
私もこのたび不治の病に罹り、危機に瀕していました。そのようなとき、さまざまな間違いがあったことを示され、一晩泣き明かし、「赦してください、赦してください」とお祈りをしました。
しかしなかなか確信がきませんでしたが、いよいよ幼な子のような信仰になって「お父さん、お父さん」と自分の心の実情を申し上げて祈りました。
「私は十二年間、夜を日についで全力を尽くし、真心をこめて仕えてきました。あなたからご覧になったら不充分でしょうが、私としては最善を尽くしてきました。どうかこの愚かな者を憐れんでください」と祈ったとき、
神は応えてくださいました。
そして赦しの確信を与えてくださったのです。
神様は赦したくて仕方がないのです。
それは高価な値を払っているからです。
二倍の賜物を与えてくださる道があるのに、不信仰のために、赦されているのに、それを信じないで「赦してください」とばかり言っているのです。
また恵まれているのに、「恵んでください」と、上を見ずに下ばかり見て失望をしているのです。
すでに与えられているのですから、信仰をもって握りさえすればいいのです。